新おじさん新聞/あの頃このごろ

「おじいさん新聞」のほうがそぐうのですが、一世風靡した週宝の人気ページ「おじさん新聞」の記者でありましたので習って「新おじさん新聞」。昭和少年の「あの頃」ベテランのおじさんになっての「このごろ」          http://blog.livedoor.jp/donsampo-muti/(閑話九題)http://blog.livedoor.jp/donsampo-bnumber/(東京横町路地さんぽ)http://blog.livedoor.jp/donsampo-mrloogan/archives/cat_226034.html(かく&つくる)

青年時代

あの頃の原宿「同潤会アパート」

巣鴨ではないが「おばあちゃんの原宿」だった原宿。明治神宮に御参りする年寄りばかりの町だった。駅前に手荷物と自転車預かり所、となりに蕎麦屋。ほかにこれといった店無し。表参道のとっかかりに廃墟跡の大谷石造りの塀があり、覗くと木立にかこまれた礎石、傾いた電柱。かなりのお屋敷だったのだろう敷地は広い。間もなく店舗が建ち並び閑散空虚は失せたけれど。
 
さきに進むと古い、これも廃墟のようなアパートあり。知人が事務所を設けていたので御邪魔する狭い部屋。安い家賃なので借りていると言うが、間もなく人気スポットとかで家賃昂奮。いまも同場所にあるが近隣にあまりない公衆トイレが便利であった。

img379同潤会アパート人通りまばらだったが、原宿族やわしら田舎者で賑わうようになり、今の喧噪に至る。横町路地に入るとやはり面白いよ、町歩きは

白木秀雄とソニーロリンズ

サテンドールのジャジーな夜/1968年頃

ジャズ喫茶によく行った。自身が俯きがちな若い時にモダンジャズを聞くと余計に
前屈になるので心身に良くないのだよねえ、と思いながら思い詰めたポーズ欲しさに行った感もある。青い。で渋谷の「ありんこ」「オスカー」「デュエット」新宿の「もず」「汀」「ポニー」「ジャズビレ」「木馬]「dig」「dug」「ビザール」など、自由が丘の太ったあの人は誰なんだろうというオーナー、テリーイソノの「5スポ」横浜野毛「ちぐさ」中野「クレセント」とか。会話禁止とか、大抵マスターがひどい無愛想とかの異空間。客の好みを観察し合わせて選曲してくれるなどの繊細さはあった。曲を聴きながら、それぞれ体を揺らしてリズムを取ったりしているのだが、ドラムに合わせるの、ピアノに乗るのなど体の揺れ方が異なるのが妙に面白かったりした。あ、私はドラム揺すりであります。四谷にも「イーグル」とかあり、ジャズ店は結構あったのですよ。その夜は仕事帰りに夜中
近くに四谷2丁目の「サテンドール」に辿り
着いた。始発まで過ごすつもりだ。ドアを開けると
ドラムセットなど
楽器が置いてあるセッションができるスペースがある。カウントベイシーと山下洋輔もそこで演ッたという。
いつもの奥の席に向かう。履物を脱いで上がるジュータン
バーの様式。ブルーグレーの穴蔵のような設えで床に座ると掘りごたつのように足が伸ばせる。左奥際のカウンターに陣取り瓶ビールを注文する(生ビールはあまり普及していなかった)。マイ栓抜きで王冠をコンコンと叩いたりせずシュポッと開け
いつものように瓶を傾けやや上方から慎重に泡立つようにグラスに注ぐ。グラスはテーブルに据え
置き傾けない。よろし泡立ち率80パーセントほどの満足。客は私だけ、あとマスターひとり。うっすらと控えめに BGM の

ジャズが流れている。静かで何も起きそうもない。いい晩だ。ビールを2本目の頃、ドアが開いて客が入って来た。白ジャケットのご機嫌さんだ。「や、こんばんわ」。あらま、テレビやレコードで見知りのドラマー白木秀雄さんである。その頃はジャズ
ブームであり、ドラマーはスターだった。石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」のドラム指導も白木氏(ご本人が叩いたという説もある。以下敬称略)。白木はアートブレイキーや知る人ぞの名人ハナ肇などとのドラム合戦でも話題を
呼び、女優の水谷良恵とのスター
同士の結婚などで芸能界でも売れっ子だった。

で、この夜。
白木がドアを押さえて招き入れたのは大柄な、わ、ソニーロリンズ。黒づくめで髪型はモヒカンではなかったが、鉄人28号みたいだと思ってしまった。おだやかな感じだ。ご機嫌な白木とカウンター右端に座る。彼らが注文したのはウイスキーだったかな。地方出の青年はオドオドと、されど横目で有名人たちをキョロ目するのであった。わたし当時22歳だったろうか(1968)今なら
話し掛けサインでも所望したのに、当時は強張るだけだった。店近くに文化放送局があったので演奏の
打ち合わせでもあったのだろうか。ビール2本目を開けるころ、ソニーロリンズが、す〜と立ち上がり、私の席の後方にあるピアノの椅子に腰掛け、しばらくおいてポロロンと弾き始めた。フレーズは
全く覚えていないが、私のために(ちがうよ)演奏してくれたと感激。しばし、お二人は軽く会釈してくれて店を出て行った。夢心地の私にマスターが微笑んだ。
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白菜しゃぼん鍋とセロテープ

「白菜しゃぼん鍋とセロハンテープ」
 日本初郊外型ショッピングセンターがオープンしたのは1969年。運営会社に就職したのは自身の行状日常から鑑みると、も少し若い時かと思っていたら23歳にもなっていたということで、あれま。      数ヶ月に渡る現場研修も残す所あと少し、開業間近の晩秋の頃である。今ではビルやマンションになっているが、当時はまだ開発途上で畑も多くあった。先輩が酒を飲ませるから来いというので同僚3人と連れ立って、表通りから一歩入り農地の奥にある柿の古木をあしらった2階建て外付け階段ギシギシのアパートにお邪魔する。
 4畳半の部屋の真ん中のコタツを囲むと、先輩が一升瓶をデ~ンと置く。それぞれコップや湯飲み茶碗に酒を注いでもらい「いっただきま~す」と一口飲ると、先輩がテープディスペンサーをデ~ンと出す。次いで小皿に醤油を次ぎソロリと出す。何だろうと怪訝な顔の私らに、テープをプリリと5センチほど切り取り醤油に浸し「ツマミだ、御通しだ皆もやれ」と舐めて酒をグビッ。私らも倣って糊面を醤油に浸しペロリ、ぐびっ。何回か舐めているとテープの糊(ほんのり甘いのよ)がなくなる。「遠慮しないで新しいのを取れ」と御進めになるが、ねえ…
 傍らのキチンの鍋がガス台の上でたぎり始めた。昆布やオカカで出しをきちんと取り、しかし、具は4人でキャベツ4分の1。足りない分はと、同僚の一人が思いついた。「畑に白菜が落ちてます」と言って一株拾って来た。それを洗って鍋に投入してしばし、煮えるのを待つ間に泡がブクムク。洗い担当の坊やが洗剤を使用したのだ。まいいやと平らげたのは言うまでもない、のか。

おおわらい海岸

img305「おおわらい海岸」
海無し県南部の私らの最寄りの海水浴場は茨城県であった。大洗海水浴場は米軍の水戸射爆場と隣接しており、ジェット戦闘機の射撃音をBGMにアイスクリンなどを楽しむのであった。ファイターの弾丸発射音はダダダダでなく高速のためビュルウルンと聞こえた。大学を中退し、あれやこれや鬱々しているときに、友人が気晴らしにと誘ってくれた旅だった。軽自動車スバル360の車内で3人で寝て浜でしこたまのんで、砂に肩肘ついて、なにを言っても笑えて(なにもかも笑い飛ばしたかったということか)馬鹿笑いを…しこたま(21歳頃/1967?)
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