新おじさん新聞/あの頃このごろ

「おじいさん新聞」のほうがそぐうのですが、一世風靡した週宝の人気ページ「おじさん新聞」の記者でありましたので習って「新おじさん新聞」。昭和少年の「あの頃」ベテランのおじさんになっての「このごろ」          http://blog.livedoor.jp/donsampo-muti/(閑話九題)http://blog.livedoor.jp/donsampo-bnumber/(東京横町路地さんぽ)http://blog.livedoor.jp/donsampo-mrloogan/archives/cat_226034.html(かく&つくる)

少年時代

赤ちゃんは幸せを連れて生まれてくる

今夏に長女の同級生だった子2名39、40で子供が生まれる予定、おめでとう。
 高齢出産という言葉があったけれど昨今ではごく普通のことである。
弟が生まれたのは母38のとき、わたし中3で「お前の子だろ」なんて同級生にからかわれた。弟のおむつも替えたし抱いて子守りもした。弟は57になるが綺麗な子で「きゃ〜かわいい」なんて女の子を吸い寄せるのがうれしかった。軟派をすればよかったが、うぶでね、わたしimg947ベビー のコピー

ベッドの上の夏休み

byoutou 1abyoutou 1a「入院した/ベッドの上の夏休み」
小児病棟入り口で撮られた6センチ角ほどの、印画紙も貴重品だったのだろう密着焼きの小さなモノクローム写真。セピアを越してクリーム色に変色している。小学1年の夏休みに入院した時の写真なので60年も以前のものだ(1953年)。ここ宇都宮国立病院は元陸軍病院だった。衛生兵だった父の駐屯地であり、父と同期の看護婦だった人がこの国立病院の婦長さんになっていた関係で特別臨時に夏休み中だけということで入院させてもらったのだ。改めて写真を見ると並んでいる皆はお揃いの白い寝間着だが、私は格子柄のネルの寝間着姿である。特別臨時でありますからね。おや、夏なのに股引を穿いている。私は小1だから7歳か、皆は私より年長で中学生もいて、隣りに座っているのが3年生だったかタロちゃん。そして後方に高い煙突を備えた煉瓦造りの大きな建物が見える。焼却炉である。
    ☆
病気がちでコホコホと変な咳をしながら背を丸めて歩く息子を心配して、近所の医院に新型レントゲンが導入されたのを機に受診させたら、初期の小児結核が発見された。投薬で治療できる程度の病状だったが忙しさに感けて病気に気づかなかったことを両親は嘆き、すぐに行動する。入院手続きをし、父が宇都宮の叔父から車を借り、取って返して生家がある佐野から宇都宮まで50キロほどの行程か、ゆっくり進む。途中の河原で「おしっこ」「あ、トンボがたくさん!」などと当人は気楽なものだが、両親の心中は如何なものだったか。昼前に病院に到着し、医師やナースに挨拶し廊下の両側に並ぶ6畳ほどの病室に荷をほどく。入り口にはドアはなくカーテンが揺れており、窓際にベッドと小さな机があった。しばしすると父母は仕事もあるので「また来るからね」と帰って行った。よく晴れていたのが夕方になって一転、空が暗転、間もなく栃木名物のドンガラガッシャンの雷雨となる。ベッド上にうずくまり強風と稲光と時折の至近への落雷を見ていた。窓外近くに植えられた大型の向日葵が雷のストロボに暗闇で浮き上がりゴツゴツと窓ガラスを叩く。漸う心細くなりグッスン。

行きつけは駄菓子屋

 実家のすぐ裏道に4軒くらいあった。裏庭から塀の扉をでると細道があり5分もかからない。店名はそこの苗字で山下とか白井とか呼んでいた。もんじゃき(もんじゃ 文字焼き)ができる炬燵設備もあった。 ちと離れた通りの団子屋の店先にはカブト虫やクワガタも売っていた。それぞれの店の売り、オリジナルブランドがあり、その日の気分で私らお客様がチョイスするというわけです。

上がり框に陣取って...
ひもを引くと先に大きな飴玉、普通の飴玉、紙箱の窓をおし開けると中になにかがなどの当て物、丸いのや角張ったのやらの面子やベーゴマ、力道山と長島カード。小袋入り甘納豆、酢イカ、ガラス管のカンテンなどなど賞味したのだが、商品全て夏でも常温陳列でした。私ら丈夫だったのですね。

「甘い素」などいうのもありました。ガラスの試験管のような容器に入っていた粉末です。なめると非常に甘いのです。後から思うにズルチン、サッカリンの類いです。発ガン性が指摘され使用禁止になったのですが、もう摂取しちゃったもんね。いつ死んでもおかしくないけれど今年68歳になりました。(いま73)

今は行きつけというと居酒屋、イタリアン、海山キャンプとかね。あ、半アウトドアであるベランダも大切

魅惑の露店

引き売り/露店

 1957年辺りだろうか白木蓮 の大木がある小学校の正門脇にも、裏門の向いにある神社脇にもいつも何かしらの店が出ていた。見ずに寄らずにいられない後門の虎、前門の龍?というやつ。その日は授業終了後、裏門から出ると神社脇に敷いたシートの上に胡座をかいた小父さんの前に「針金細工」の大型機関銃が看板代わりに置いてあり、次々と作っていくのは針金の輪を弾にするピストル、出来上がると側の的にカチンなどとデモンストレーションの試し打ち、欲しくなるじゃ在りませんか100円くらいだったかな。急いで家に帰り小遣いを貰って神社までトンボ帰り。一丁仕入れて電柱などコチ~ン、カチーンと打ちながら気分はビリーザキッドかローンレンジャー、キモサベか、で家まで。弾が無くなると自作した。鉛筆などの丸棒に針金を巻き付けてバネ状にしてニッパーで切って輪の弾にする。継ぎ目はペンチで直す、なかなか難しいのであります。
 またある時は「ぶっかきカルメ焼き」トレー一杯に焼いたカルメ焼きがありそれをピックで割りくずし新聞紙を巻いたコーン状容器に入れるというもの。甘い物が欲しい時期でした。リヤカーの荷台に小さな水槽がしつらえてあり、底に置いてある碗に3センチ角程のブリキの小片をヒラヒラと落として入れば2倍のカルメ焼きゲットという趣向。上手な子はヒラリともさせずスト−レートに急降下させて毎回ゲットしている、驚愕。ここは同級生の親の店だった。
 また或日、直径8センチほどのデンブの桃色と卵の黄色の2色 にソースを刷毛で塗り一丁上がりの「お好み焼き」。卵を使っているぞーとアピールする卵殻山盛りのバケツが足元にはあり。これも当てクジがあり、手作りの(ゆえに四角い)ルーレットでくるりと回し矢印が差したら1個おまけというもの。これも先輩の親の店だった。あれこれ工夫の世すがなりしか、逞しか!
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もんじゃき

もんじゃき

東京に「もんじゃ」あり。月島あたりが有名だが結構な値がする。つーか高いよ。もともと子供が小遣いをもって駄菓子屋で炬燵で焼いて食べた物だ。夏は布団抜きの炬燵。溶いた小麦粉で鉄板に「文字」を書いたり絵を描いたりと遊んだのが名の由来。北関東の郷里では「もんじゃき」と言う。「もんじやき」でなく「もんじゃき」。東京のように土手は構築せず、アルミカップでドドドと混ぜてジュッと鉄板に投下し焼いて食す。そっとヘガシ(剥がし)ですくうように食べる(コテ、ヘラをヘガシというのだ、)。鉄板に焦げが残る。炭化ではなく焦がさず柔らかさを損ねないのが技である。更に追加しながら焼いていくと焦げが厚みを増して来る。これを「せんべ」と称し、味が凝縮してね、パリパリと旨いのよ。最後の仕上げに食べるのが楽しみなのだ。時に今も家庭でお好み焼きを作るが、ラストは容器洗浄も兼ねて水を加えてシャバシャバにしオカカと小口ネギなど加えて「もんじゃき」とするのが好評だ。ウスターソースと醤油混合味付け。絶妙の「せんべ」作ってあげると子供達も喜んでね。